Zero-Alpha/永澤 護のブログ

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2007.12/27. Workshop,resume.2007/12/10-

*NBIC(:Nano-technology,Bio-technology,Information-technology,Cognitive science)融合と《我々=人間》の欲望との出会い――「メタ生命倫理学(Meta-bioethics)」の方法論的探究概念としての<生体工学的介入>の分析論に向けて

*「メタ生命倫理学(Meta-bioethics)」:下記に定義する<人間の身体>領域への技術的介入の多様な実践及びその展開の文脈生成過程の分析論⇒任意の「テクノロジーによる介入」の分析論のモデル
:生殖細胞系列をその端緒とする形で規定された<人間の身体>――この意味における<人間の身体>には、生殖細胞系列・個々の体細胞(群)・胎児及び出生後の生体が含まれる――に対する<生体工学的介入>という操作を焦点化する。ここでの<人間の身体>領域は、技術的介入の多様な実践及びその展開がそこへと位置づけられる文脈生成過程の変容に伴って、絶えずそれ自身と<非-人間の身体non-human body>領域との境界領域が識別不可能な領域を内包しながら変容するという性格を持っている⇒ここで、<生体工学的介入>とは、上述の意味での<人間の身体>領域への技術的介入の多様な実践及びその展開(NBICの各様態における技術的介入が複合・融合・収束した諸様態における技術的介入)として定義される。
以下において、この<生体工学的介入>に関わるいくつかのテーマを論じる。
テーマ1.<生体政治工学的介入>と予測可能性のデッドライン
1-[1].「能力・性能の増強:Enhancement」と「欲動(drive)」の生成
:<生体工学的介入>が、法的システムによって予防または治療上の目的に限定されている場合、それ以外の目的の禁止または排除という事態が、それら法的システムの現実的な運用上、むしろそういった目的を逸脱する予測不可能な事態を現実に誘発してしまう――あるいはそういった予測不可能な事態が生成する可能性を(すなわち任意の操作主体の逸脱的行為への無意識の欲望を)むしろ強化する――という事態が想定され得る⇒このテーマは、「予防または治療」をサブカテゴリーとして含むものとして構想された「NBICによる人間(社会)の能力・性能の増強:Enhancement」という問題系に接続できる。
ここでは、無意識の欲望の生成過程の文脈として、予防または治療上の目的に限定されているという形で記述可能な象徴的枠組みが前提されている。もしこの象徴的枠組みの不在が露呈するなら――予防または治療上の目的(=A)以外の非限定無限(判断)領域(=non A) が予測不可能な事態の生成フィールドとして焦点化されるなら――ここでの「欲望(desire)」は、象徴的枠組みを空無化する力(以下この力を「欲動(drive)」と呼ぶ)の生成という事態へと移行することになる⇒「「NBICによる人間(社会)の能力・性能の増強」という問題系は、この象徴的枠組みを空無化する可能性を持っている:「人間(社会)の能力・性能の増強」と「欲動(drive)」の生成という事態との関係性のテーマ化
1―[2]. 接近(記述)不可能な<現実=全体>と<規則のシステム=全体>の不可能性
ここで、現実の操作主体の意思決定=選択行為を制御する何らかの基準を問うならば、無限背進に陥る。また、ここで予測の対象として、「単なる予測不可能な事態」と区別された「現実的な効果をもたらす事故」を想定した上で、現実的な状況下における予測可能性の基準――確率的な事故予測に基づく何らかの「運用規則(防御的事故対処操作のアルゴリズム:計算プログラム)」という<現実性のフレームワーク>(及びその内部に位置づけ可能な「突発的事故」)――を構想しようとしても同様の結果に陥る。言い換えれば、任意の「失敗」あるいは「突発的事故」に対して、「安全弁(となり得る防御操作)」が確立されているという論理(いわゆる「フェイルセーフfail safe」)だが、<生体工学的介入>に関して現実的な効果をもたらす「突発的事故」の固有領域を確定することは、単なる想定の内部にとどまる。
ここで運用規則という<現実性のフレームワーク>と呼ばれているものは、この規則を構成する可能的選択肢(上記アルゴリズムにおける任意のユニット)に対応したものとして想定される意思決定=選択行為が、<現実的事象>としては同定不可能な不確定状態にとどまり続ける――言い換えれば、それら可能的意思決定=選択行為の仮想的な総体が、象徴的枠組みにとって記述不可能な<現実=全体>を構成する――という原理的規定を有する。
すなわち、<現実性のフレームワーク>として措定された任意の「運用規則」は、何らかの<規則のシステム=全体>として<現実=全体>の整合的な規則性を記述しようとする限り、不可避的に自壊する(あるいはつねにすでに自壊している)⇒言い換えれば、任意の<現実的事象>の制御能力を有する<現実性のフレームワーク>あるいは<規則のシステム=全体>は存在しない。
1―[3]. <非-人間の身体non-human body>領域の生成フィールドとしての非限定無限(判断)領域
予防または治療上の目的といった一定の制限=実効的な限界領域の設定行為は、禁止または排除の<規則のシステム=全体>の構成という目的達成に失敗する。この場合、この「目的(=A)」以外の非限定無限(判断)領域(=non A)が、<人間の身体>領域との間の識別不可能な領域を内包する<非-人間の身体>領域の生成フィールドとして露呈する。
1―[4]. 《見知らぬ何か――あるいは物――としての対象=X》の出会い
<非-人間の身体>領域において生成する「(任意の)他者」は、その他者を操作・決定の対象とする任意の<人間>すなわち<私たち>にとって、「見知らぬ何か」として現象する。言い換えれば、<私たち>――《我々=人間》――にとって、この「(任意の)他者」は、<非-人間の身体>領域における《見知らぬ何か――あるいは物――としての対象=X》であり続ける。この《見知らぬ何か――あるいは物――としての対象=X》は、<私たち>/《我々=人間》自身の<人間の身体>領域への帰属の根拠を不可逆的に空無化し、その<人間の身体>領域の<非-人間の身体>領域への移行という事態を生成させる。
テーマ2. 意思決定=選択行為と「価値観」の同時生成過程
2―[1].「自らの価値観」から「個人の価値観」へ
経験と行為の、意思決定=選択行為としての生成過程を個人が記述可能なものとして捉えたときに、その個人にとって「自らの価値観」が同時に生成する。このとき、記述可能なものとして捉えられた個人の意思決定=選択行為は、同時にこの個人の固有な「価値観」を表現する意思決定=選択行為として記述できる。
ところで、こうした現実の意思決定=選択行為の主体ではない任意の個人としての<私たち>にとって生成する記述行為の枠組み(framework)が、単に一般的なものとして記述された「個人の価値観」である⇒この意味での「個人の価値観」は、先に見た「自らの価値観」とは厳密に異なる。この意味での「個人の価値観」とは、「個々人がどのような価値観を持とうと、私たちはその価値観自体を<誤った価値観>として拒絶することはできない」という記述(または発話)において登場する「個人の(個々人の)価値観」である。
2―[2]. <私たち>/《我々=人間》の欲望の不可避的な自壊
「個人の価値観」とは、<私たち>/《我々=人間》によって遂行される記述行為が取る枠組みを意味する。その内容が充当された事例として、「治療不可能な遺伝子疾患を持った子どもを実際に産んだ後の苦悩を考えれば、誰であれ一概に中絶を否定することはできない」を挙げることができる。
「個々人がどのような価値観を持とうと、<私たち>は――すなわち誰であれ――その価値観自体を<誤った価値観>として拒絶することはできない」及び「個々人がどのような意思決定=選択行為――いわゆる自己決定――を行おうとも、<私たち>は――すなわち誰であれ――その個々人の意思決定=選択行為自体を誤ったものとして拒絶することはできない」の両者は、同じ象徴的枠組みのレベルを占めている。 
⇒この象徴的枠組みにおいて表出されているのは、その都度の現実の記述行為が、この枠組みを充当する任意の価値内容あるいは価値尺度の記述領域(=A)を逸脱する非限定無限(判断)領域(=non A)において未知の<意味するもの>を生成するという事態をあらかじめ排除することを目指す<私たち>/《我々=人間》の欲望である。
この欲望は、上記の枠組みがどのような「途方も無い」価値観であっても包括する象徴的枠組みであることによって、むしろ既知の<意味されたもの>として与えられている価値の枠組み内部にあらゆる記述行為を回収し階層序列化することを狙っている。だが、この枠組み内部で活動する欲望は、任意の枠組みを空無化する「欲動」の生成フィールドである非限定無限(判断)領域への移行過程においてこの欲動に抵抗するという不可能な課題をつねにすでに抱え込んでいる。言い換えれば、この操作=記述行為は、任意の記述行為と記述不可能な<現実=全体>との間の除去不可能な空隙を抹消するという不可能な課題をつねにすでに抱え込んでいる⇒この形式的操作=記述行為がそれ自身の正当化の根拠を持ち得ず、不可避的に自壊する(あるいはつねにすでに自壊している)のはこのためである。
3.<生体工学的介入>の意識化過程の分析論
次に、個人=記述主体による<生体工学的介入>――より普遍的な射程においては任意の「テクノロジーによる介入」――の意識化過程の分析論を試みる。なお、その際、「意識化」とは、その都度の記述遂行過程の遂行主体としての個人=記述主体にとってあくまでも事後的に見出されるものとして、何らかの<記述行為=言説実践>において記述可能な形での対象化が生成しているという事態を含意するものとする。この定義を前提とした上で、分析対象となるミニマムレベルの<記述行為=言説実践>の事例を以下のように提示する。
事例:「(何らかの<生体工学的介入>を経て)これから(type1)生まれてくるのは、(type2)作り出されるのは、人間だと思うが、そればかりではないのではとも思う」
まず、この記述においては、「A(これから生まれてくる・作り出される何か)=X(人間)」と判断し得る可能性と「A=<non-X>(《見知らぬ何か――あるいは物――としての対象=X》)」という判断とが並置されている。言い換えれば、「A=X」という肯定判断と「A=<non-X>」という無限判断とが並置されている。この「A=X」と「A=<non-X>」の「並置」という事態は、必ずしも個人=記述主体にとって意識化(記述可能な形での対象化)されない様態という事態に対応する⇒<生体工学的介入>の産物は、必ずしも意識化され得ない《見知らぬ何か――あるいは物――としての対象=X》に留まる。
ある個人=記述主体が何らかの記述を生成しつつそれを対象化していく無意識の過程それ自身は、リアルタイムで(同時並行的に)その個人=記述主体によっては意識化されない。すなわち、個人=記述主体によるその都度の記述行為の遂行過程と、その個人=記述主体によるその記述行為の意識化過程との間には、除去不可能な空隙が存在する。
他方、ある個人=記述主体が何らかの記述を生成しつつそれを対象化していく無意識の過程を、この個人=記述主体にとっての意識化過程として捉えることができる。
ところで、ある認識へといたる意識化の過程が、ある別の認識へと向かう無意識の変容・分岐の過程を生成する場合、この変容・分岐の過程は、ある認識の無意識の生成過程であり、同時にその意識化の過程であり、さらに他の認識へと変容・分岐していく無意識の創発過程でもある。
私たちは、個々人がある認識へといたる意識的かつ無意識的な過程が、ある別の認識へと向かう意識的かつ無意識的な過程へと変容し分岐していくという事態の<全体>を、何らかの因果的関係のもとで記述する力を持っていない。この事態は、<規則のシステム>が<現実=全体>の整合的な規則性を記述しようとする限り、不可避的に自壊する(あるいはつねにすでに自壊している)という事態に対応する。
この複数の認識の分岐プロセスという事態は、「A=X」という肯定判断と「A=<non-X>」という無限判断との並置という事態と密接な関係にある。すなわち、この分岐プロセスは、X以外の非限定無限(判断)領域への移行過程であり、その過程における新たな認識の生成途上にある事態として、それ自体としては意識化(記述可能な形での対象化)され得ない⇒もし何らかの生体工学的介入の過程で《見知らぬ何か――あるいは物――としての対象=X》が生成しつつあったとしても、その<何か>の生成過程は事後的にしか記述できない。
ある認識の生成が他の認識の生成の契機となるという事後的にしか記述し得ない事態は、任意の個人=記述主体にとって予測不可能な偶発的出来事である。私たちは、この文脈生成過程自体を意識化することはできない⇒だが、何らかの文脈の生成という出来事は、この私にとって<リアルなもの:The Real>として事後的に意識化(記述可能な形での対象化)されることになる。
ここで、「メタ生命倫理学」を導く<理念>を、次のように規定することができる。すなわち、<理念>とは、<私たち>/《我々=人間》の何らかの認識が、任意の(可能的には無際限の)個人=記述主体の記述として生成し得る場すなわち文脈生成過程の――それ自体として<全体>化不可能な――仮想的総体である。
このような<理念>を、私たちは<非-全体>としての理念と呼ぶことができる。言い換えれば、この<理念>は、<現実=全体>の整合的な規則性を記述し得ると僭称するあらゆる<規則のシステム>を不可避的な自壊へと導くものである⇒すなわち、このメタ生命倫理学の<理念>は、<生体工学的介入>を貫く<私たち>/《我々=人間》の欲望が不可避的に自壊し、「欲動」の非限定無限(判断)領域としての<非-人間の身体>領域へと移行する人類の決定的な存在論的分岐点を指し示している。


2007.12/27. Workshop,resume,Version.2.2007/12/18.

*NBIC(:Nano-technology,Bio-technology,Information-technology,Cognitive science)融合と《我々=人間》の欲望との出会い――「メタ生命倫理学(Meta-bioethics)」の方法論的探究概念としての<生体工学的介入>の分析論に向けて

*「メタ生命倫理学(Meta-bioethics)」:<人間の身体>領域への技術的介入の多様な実践及びその展開の文脈生成過程の分析論⇒<生体工学的介入>:<人間の身体>領域への技術的介入の多様な実践及びその展開(NBICの各様態における技術的介入が複合・融合・収束した諸様態における技術的介入)
テーマ1.<生体政治工学的介入>と予測可能性のデッドライン
1-[1].「能力・性能の増強:Enhancement」と「欲動(drive)」の生成
⇒「予防または治療」をサブカテゴリーとして含むものとして構想された「NBICによる人間(社会)の能力・性能の増強:Enhancement」という問題系⇒「「NBICによる人間(社会)の能力・性能の増強」という問題系は、予防または治療上の目的に限定されているという形で記述可能な象徴的枠組みを空無化する可能性を持っている:「人間(社会)の能力・性能の増強」と象徴的枠組みを空無化する力として生成する「欲動(drive)」の生成という事態との関係性のテーマ化
1―[2]. 接近(記述)不可能な<現実=全体>と<規則のシステム=全体>の不可能性
<生体工学的介入>に関して現実的な効果をもたらす「突発的事故」の固有領域を確定することは、単なる想定の内部にとどまる⇒任意の<現実的事象>の制御能力を有する<現実性のフレームワーク>あるいは<規則のシステム=全体>は存在しない。
1―[3]. <非-人間の身体non-human body>領域の生成フィールドとしての非限定無限(判断)領域
予防または治療上の「目的(=A)」以外の非限定無限(判断)領域(=non A)が、<人間の身体>領域との間の識別不可能な領域を内包する<非-人間の身体>領域の生成フィールドとして露呈する。
1―[4]. 《見知らぬ何か――あるいは物――としての対象=X》の出会い
<非-人間の身体>領域において生成する《見知らぬ何か――あるいは物――としての対象=X》は、<私たち>/《我々=人間》自身の<人間の身体>領域への帰属の根拠を不可逆的に空無化し、<非-人間の身体>領域への移行という事態を生成させる。
テーマ2. 意思決定=選択行為と「価値観」の同時生成過程
2―[1].「自らの価値観」から「個人の価値観」へ
経験と行為の、意思決定=選択行為としての生成過程を個人が記述可能なものとして捉えたときに、その個人にとって「自らの価値観」が同時に生成する。
ところで、こうした現実の意思決定=選択行為の主体ではない任意の個人としての<私たち>にとって生成する記述行為の枠組み(framework)が、単に一般的なものとして記述された「個人の価値観」である⇒この意味での「個人の価値観」は、先に見た「自らの価値観」とは厳密に異なる。
2―[2]. <私たち>/《我々=人間》の欲望の不可避的な自壊
「個々人がどのような価値観を持とうと、<私たち>は――すなわち誰であれ――その価値観自体を<誤った価値観>として拒絶することはできない」⇒その都度の現実の記述行為が、この枠組みを充当する任意の価値内容あるいは価値尺度の記述領域(=A)を逸脱する非限定無限(判断)領域(=non A)において未知の<意味するもの>を生成するという事態をあらかじめ排除することを目指す<私たち>/《我々=人間》の欲望⇒既知の<意味されたもの>として与えられている価値の枠組み内部へのあらゆる記述行為の回収と階層序列化⇒この形式的操作=記述行為はそれ自身の正当化の根拠を持ち得ず、不可避的に自壊する
3.<生体工学的介入>の意識化過程の分析論
「意識化」:その都度の記述遂行過程の遂行主体としての個人=記述主体にとってあくまでも事後的に見出されるものとして、何らかの<記述行為=言説実践>において記述可能な形での対象化が生成しているという事態
*分析対象となるミニマムレベルの<記述行為=言説実践>の事例:
「(何らかの<生体工学的介入>を経て)これから(type1)生まれてくるのは、(type2)作り出されるのは、人間だと思うが、そればかりではないのではとも思う」
「A(これから生まれてくる・作り出される何か)=X(人間)」という肯定判断と「A=<non-X>(《見知らぬ何か――あるいは物――としての対象=X》)」という無限判断との並置という事態⇒<生体工学的介入>の産物は、必ずしも意識化され得ない《見知らぬ何か――あるいは物――としての対象=X》に留まる
ある個人=記述主体が何らかの記述を生成しつつそれを対象化していく無意識の過程それ自身は、リアルタイムで(同時並行的に)その個人=記述主体によっては意識化されない⇒私たちは、個々人がある認識へといたる意識的かつ無意識的な過程が、ある別の認識へと向かう意識的かつ無意識的な過程へと変容し分岐していくという事態の<全体>を、何らかの因果的関係のもとで記述する力を持っていない:<規則のシステム>が<現実=全体>の整合的な規則性を記述しようとする限り、不可避的に自壊する
分岐プロセス:X以外の非限定無限(判断)領域への移行過程であり、その過程における新たな認識の生成途上にある事態⇒もし何らかの生体工学的介入の過程で《見知らぬ何か――あるいは物――としての対象=X》が生成しつつあったとしても、その<何か>の生成過程は事後的にしか記述できない⇒だが、何らかの文脈の生成という出来事は、この私にとって<リアルなもの:The Real>として事後的に意識化(記述可能な形での対象化)される
*「メタ生命倫理学」を導く<理念>:<私たち>/《我々=人間》の何らかの認識が、任意の(可能的には無際限の)個人=記述主体の記述として生成し得る場すなわち文脈生成過程の<全体>化不可能な仮想的総体⇒<非-全体>としての理念:この<理念>は、<現実=全体>の整合的な規則性を記述し得ると僭称するあらゆる<規則のシステム>を不可避的な自壊へと導く:この<理念>は、<生体工学的介入>を貫く<私たち>/《我々=人間》の欲望が不可避的に自壊し、「欲動」の非限定無限(判断)領域としての<非-人間の身体>領域へと移行する人類の決定的な存在論的分岐点を指し示している。




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